本と在る日々

本とお酒、2〜3人の親友が居れば、それで人生だいたい満足な、妻子持ちサラリーマンが書く読書感想ブログ。

戦争と平和

トルストイ著「戦争と平和」の高峰に挑む。

戦争と平和〈4〉 (新潮文庫)

戦争と平和〈4〉 (新潮文庫)

必ず2016年中に新潮文庫で全4巻を読了したい。「戦争と平和」は、プルースト著「失われた時を求めて」と共に、死ぬまでに(出来れば20代のうちに)読まなければならないと、私が独断で決めている書籍のひとつである。昨年末に読み始め、3巻の途中まで読み進めたところ、年明けに私生活で一大事が起こり中断。11月頃に漸くひと段落ついたので、再読して1巻を読了。

戦争と平和」における登場人物の多さ(それぞれキャラ立ちしているのが凄い)、ストーリー構成の緻密さ、そして人間心理の描写と様々な情景を描くトルストイの筆致は、正に圧巻の一言。当時の、富裕な地主貴族というトルストイ自身の環境から、世界的な大文豪が生まれたことは、奇跡としか言い様がない。

1巻は、帝政ロシア時代の貴族連中による、社交サロンの場面から幕を開ける。登場人物が次々と会話を交わし、「戦争と平和」の全体を通して主要人物になる面々が、第1巻の300ページ迄で一挙に出てくる。そのため初読の場合、誰が主役で誰が脇役か、おそらく区別が付かない。せいぜい登場回数の多い少ない等で、初読は判断するしかない。加えて、ロシア特有の人物の呼称が複数出てくる為、読み進める事に苦痛を覚え、困難を伴うことは必至である。

だが上に述べた理由だけで、みすみすこの大作を未読で終えるには、あまりにも勿体無い。冒頭の社交界の場面を経て、壮大な物語が繰り広げられるのである。1巻は、アンドレイが戦地で斃れて空を仰ぎつつ、新たな人生観と邂逅する場面で終わるが、それに至るまでの戦場の描写も微に入り細を穿った内容のため、馴染みのない読者には退屈に感じることであろう。

本は好きに読む『読書案内』

読書案内―世界文学 (岩波文庫)

読書案内―世界文学 (岩波文庫)

本は人それぞれ好き勝手に読めばよい。 というのが私の持論である。読書が好きで、貴方の生活の一部になっていたなら、それは立派な読書人といえよう。

私自身の読書スタイル、寝転がりながら、電車の中、お風呂に浸かりながら、寝る前の枕元、果ては酔い覚ましに、、様々である。 書店にも頻繁に足を運ぶのが望ましい。特に大型書店ほど、選書や出版社のフェアも活発で、本棚の新陳代謝が良く通う価値がある。Amazonでは立ち読み(出来ても、最初の何ページかまで)が出来ないので、やはり中身を自分で確認してから購入した方が良い。また書評や参考文献から、芋づる式に欲しい本が増えていくのも、楽しい反面、自分の財布と積ん読との相談になる。

巷では速読や効率性を上げる為の方法が書かれた本が、飽きもせず常に平積みされ、喧伝されている。参考程度には良いかもしれないが、鵜呑みするのは危険である。すぐ役に立つ方法は、すぐに陳腐化してしまう。自分であれこれ試して、自分に合った方法を、自分で見つける作業こそ楽しいのであって、借り物のハウツーでは長続きしない。

濫発される書籍の中で、これは一読に値する(と私が感じた)、本読みの達人による幾つかの読書論に関する書物を、気の赴くままに紹介していきたい。各界の専門家や古典文学者が、どのように古今東西の書物を地肉化していったか、そこに興味と関心がある。

冒頭の主張と矛盾しているが、私も他人の読み方や推薦図書を参考にしたいのである。

W.S.モーム著『読書案内』は、全体で100頁足らずしかないが、主にヨーロッパとロシアの古典文学を中心に、著者と書物を簡単に紹介している。何より頁数に対してカバーしている名作文学の量が多い。但し、モーム自身の好み(=選書)が偏っており、アジア圏やアメリカの文学作品はほとんど紹介されていない。それでも、超一流の作家が寄稿したこの読書ガイドは、現代の我々にとっても大いに参考になる。「読書というのは楽しみのために読むべし」という主張が特に際立。モームからすれば、面白くなければ読書の意味がないのだ。通読のために、斜め読みも推奨している。モーム著『世界の十大小説(上・下)』も、併せて一読されたい。彼自身の作品である『月と6ペンス』『人間の絆』等は、また機会があれば紹介したい。

死を前に人は何を想うか『イワン・イリッチの死』

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)

世俗的な地位と名誉を手に入れ、有能な官史として平凡な日々を過ごしていた主人公イワン。一つの些細な怪我から不治の病に侵され、心身が徐々に衰弱していく。あえて病気(≒死)を直視しようとしない家族や友人、医者に、イワンはすっかり気落ちしてしまう。

主人公イワンは、病状の進行に伴う苦痛と周囲の反応に絶望し、それに耐えきれず始終呻くようになった。最後の数ページでイワンの断末魔と改心(ある種の悟り)が克明に描かれる。溢れ出る生への羨望や恨みを、自分が死ぬことで、迷惑をかけた周囲へのせめてもの報いになると、懊悩の原因である死を自身で昇華させ、イワンは黄泉の国へ旅立った。そこでこの物語は幕を閉じる。

献身的な介護をしてくれた召使ゲラーシムが居なければ、救われない末期であったろう。突然、余命を宣告された末期癌の患者であれば、このような状態に陥ってしまうのも頷ける。仮に私があと数ヶ月しか生きられないと分かったら、その事実をどのように受け止め、何を想い、そして残された時間をどう過ごすだろうか。果たして正気を保てるだろうか。その解釈と判断は、各人に委ねられている。

映画監督の黒澤明氏は、この作品を読んで大きなインスピレーションを受け、そこから「生きる」という映画を撮影したそうである。たまたま私は本著を読むより先に、この映画を観たことがあり、内容の関連性にひどく納得した次第である。TSUTAYAでレンタル出来るので気軽に観れるのも良い。その反面、内容は重たい。

人間はあっという間に歳を重ね、時間の経過とともに月日は流れてゆく。どれだけ医療技術が進歩しても、遅かれ早かれ人は皆必ず死んでしまう。仏教の言葉を借りると、生病老死であり会者定離なのである。究極の問いは常に私たちに突きつけられており、日常に忙殺され目を反らすのも良いが、時には直視せよという警告を与えてくれる、そんな作品であった。

トルストイが書いた「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」の大長編も大いにお薦めするが、この中編も素晴らしい。やはり、トルストイはロシアが生んだ大文豪である。

PS.フランツ カフカ「変身」と併せて読むと、近似性があって面白い。主人公イワンはカフカに言わせると、目が覚めたら虫であったのだ。